更新 2024-3-5
VSEPR則とその限界
分子の形は何によって決まるでしょう.
例えばメタン()は、にが4つ共有結合した物質です.4つの結合は互いに等価であり、それぞれのがお互いを最大限引き離すために、各結合が四面体状に配置されます.それゆえメタンは正四面体型であり、各角は理想的な109.5度です.
フッ化ボロン()は、3つの等価な結合を最大限に引き離すために正三角形の形をとります.ここまでは幾何学的に明らかなことでしょう.
一方、アンモニア分子()はとは異なり、三角錐の形です.このような分子の形の違いは何によって決まるのでしょう.
中の原子には結合に関与しない電子対(孤立電子対)が1セットあり、この孤立電子対が結合に関与した他の電子対(結合電子対)と静電的に反発します.
には3セットの結合電子対と1セットの孤立電子対があり、これらの電子対が互いに反発して四面体上に並びます.孤立電子対は目に見えないので、結果として三角錐の形に並んだ分子のみが見えるわけです.同様の考えにより、が直線上ではなく折れ線の形をしている理由も説明できます.
このように結合電子対と孤立電子対を考慮する理論は原子価殻電子対反発(VSEPR)則と呼ばれ、数々の分子の形を予測する上で力を発揮してきました.
VSEPR則では、結合電子対と孤立電子対とで静電的に反発させる力に差異があるとみなします.すなわち、孤立電子対の方が結合電子対よりも他の電子対を反発させる力が強いと考えます.実際、における角は理想的な四面体のものよりも小さくなっており、これは孤立電子対が他の結合電子対により大きな相互反発力を及ぼしたためであると解釈されています.
では、なぜ孤立電子対の方が結合電子対よりも他の電子対を反発させる力が強いのでしょう.残念ながらVSEPR則はこの疑問に答えることができません.このように不十分な点はありますが、その簡潔さと適用例の多さから、VSEPR則は化学界の半ば常識として捉えられ、教育の現場でも使用され続けてきました.
一方で、その不完全さから「時代遅れ」とみなされることもあるのがVSEPR則です.古典的な静電反発のみを考慮したVSEPR則は、原子軌道や対称性を考慮しておらず、孤立電子対と結合電子対の違いを説明することができません.これらの問題点を解消するため、代わって発達した理論が今回紹介するベント則です.
分子の結合がなぜ曲がる(bentする)かを説明した理論ですが、その名は動詞ではなく人名によります.1961年、イギリスの化学者Henry A. Bentは様々な分子構造を説明可能な理論を提唱しました.VSEPR則の普及以降にもその問題点を解消するための枠組みは続いていましたが、Bentの理論はその完成形の一つと言えるでしょう.
ベント則の主張
Bentの主張は以下の一文に集約されます.
”Atomic s character concentrates in orbitals directed toward electropositive substituents.”
「原子のs性は、電気的に陽性な置換基を向いた軌道に集中する」
さて、この意味を掴み取れるでしょうか.まずは上の主張に含まれる用語を確認します.
「原子のs性」
ここで、s軌道とp軌道について復習しましょう.等方性のs軌道と、xyz軸いずれかに方向性を持ったp軌道があります.メタンやエチレン、アセチレンの結合を説明するためにsとpを混ぜ合わせた混成軌道が考案されたのでした.
原子のs性とは、混成軌道のうちのs軌道の混成の割合を指します.
すなわち、
sp > sp2 > sp3
の順でs性が高い(p性が低い)ということになります.今は何の事やらという感じですが、ひとまず話を進めましょう.
「電気的に陽性な置換基」
電気的に陽性かどうかを決めるにはどうすればよいでしょうか.手っ取り早いのは電気陰性度を用いることです.すなわち、電気陰性度の小さい元素は電気的に陽性、大きい元素は電気的に陰性となります.
以上を用いると、ベントの主張は以下のようになります.
「混成軌道のs軌道の割合は、電気陰性度の小さい元素の置換基を向いた軌道のほうが大きい」
さて、分かったような分からないような…
以下で具体例を見ていくことにしましょう.
ベント則の解釈
ベント則を理解する上で、重要なポイントは以下の2つです.
・s軌道はp軌道よりもエネルギーが低い.
・s軌道はp軌道よりも原子核に近い位置に分布している.
フルオロメタン()という分子を考えます.メタン()の置換基のうちの一つがに変わった化合物です.
とを比べるとのほうが電気陰性度が大きいです.そのため、結合は極性を持ち負電荷がの方に偏ります(の電子密度が上昇します).
s軌道はp軌道よりもエネルギーが低いので、炭素の結合の混成軌道のs性を増すことで、結合における電子のエネルギーを減らすことができます.
一方、はよりも電気陰性度が大きいです.
結合の場合とは逆に、結合ではの電子密度が上昇し、の電子密度が減少します.結合におけるの混成軌道は、の電子密度が小さいので、結合のエネルギーはsとpの混成の比率にあまり依存しなくなります.よりp性の混成軌道をに向けても、エネルギーの増加はほとんどありません.
結果として、
・結合:の方が電気陰性度大きい
→の電子密度が上昇
→結合のs性を上げることで結合安定化
・結合:の方が電気陰性度高い
→の電子密度が上昇
→結合のp性を上げてもエネルギー増加がほとんどない.
となります.
これが「原子のs性は、電気的に陽性な置換基を向いた軌道に集中する」の意味するところです.
混成軌道のs性を電気的に正の置換基を向いた軌道に集中させ、電気的に負の置換基を向いた軌道ではs性を減少させることで、系全体のエネルギーを低下させることができます.
さて、以上の考えは孤立電子対にも応用することが可能です.
孤立電子対と結合電子対の違いは何かというと、結合先の原子がいるかいないかです.
孤立電子対では結合先の原子が無限遠に存在すると考えます.こうすると、超絶ウルトラ電気的に陽性な元素と結合しているとみなすことができ、この電子は高いs性を持つべきであると考えられます.
一方、電子が存在しない非占有軌道については、相方の電子対が無限遠にいる原子の近く(同じく無限遠)に存在すると考えます.すなわち、電気陰性度が極めて大きい原子に電子対を全て奪われていると考えれば、この軌道には高いp性が期待できます.
ここまでくれば、ベントの主張も想像がつきやすくなったかと思います.
”Atomic s character concentrates in orbitals directed toward electropositive substituents.”
「原子のs性は、電気的に陽性な置換基を向いた軌道に集中する」
しかし、これを分子の形にどう応用できるのかは分かりません.
今回は概要まで.
次回は、ベント則を実際の分子の構造に応用した事例を見ていきます.