水銀の不思議
数ある金属元素の中でも、水銀()は極めて特異な性質を持ちます.独特な色と光沢から金属とすぐ分かる特徴を持ちながら、常温で液体であるという点が他の金属と大きく異なります.
水銀が温度計やランプ、血圧計などで使用されていたのも昔の話であり、日常生活で水銀を見かけることはほとんどなくなってしまいました.しかし、水銀は液体であるということは誰もが知っています.
では、なぜ水銀は液体なのでしょうか.水銀を初めて知った時に誰もが思い浮かぶ疑問ですが、答えはそれほど単純ではありません.原子や電子の世界にまで考えを及ぼすことではじめてその答えにたどり着きます.
今回は、周期表の金属元素の中でも異彩を放つ水銀の性質について考えていきます.
水銀について
水銀が常温で液体であることは、古来より知られていました.ギリシャ語の Hydrargyrum(水のような銀)、ラテン語のArgentum Viuum(素早い銀)、英語とフランス語のQuick silver、そして日本語の「水銀」はいずれも水銀が自在に動き回る金属であることを反映しています.水銀は他の金属を溶かすことが容易な性質があり、こうしたアマルガム化は紀元前から知られていました.
では、改めて「水銀はなぜ液体なのか」という疑問に戻ります.少しでも化学の知識がある人は、この質問がナンセンスであることを知っています.なぜでしょう.
水銀であっても、マイナス40℃程度に冷やすと固体になります.たまたま日常的な温度では液体であるだけです.また、鉄や銅といった他の金属でも十分に温度を上げれば液体になります.ガリウムやセシウムに至っては、体温程度の温度で液体となります.このように液体の金属というのはさほど珍しい存在ではありません.
それゆえ、科学的に正しい疑問を持つのであれば、「なぜ水銀の融点は数ある金属元素の中でも低いのか」というのが正しいでしょう.
「なぜ低いのか」というのは相対的な話になるので、周期表にある別の元素との比較から始めなければなりません.
水銀と金はなぜこれほどまでに違うのか
周期表の中で近くに位置する元素は一般によく似た性質を持ちます.
一方で、水銀の左隣に位置する金()と水銀では驚くほど性質が異なります.例えば、水銀の融点はマイナス39℃であるのに対し、金の融点は1064℃です.周期表中で隣り合うペアのうち、これほど融点がかけ離れた組み合わせはめったにありません.密度を比べてみても、金が
、水銀が
で大きく異なります.
一方、金の融解エンタルピー() と水銀の融解エンタルピー(
)が大きく異なることとは対照的に、融解エントロピーにはあまり違いがありません(金では
、水銀では
).これは、金と水銀で熱力学的な振る舞いがほとんど変わらない一方で、原子同士の結合エネルギー(原子を引き離すのに必要な力)が金よりも水銀ではるかに弱いことを示しています.
金と水銀には他にも大きな違いがあります.金の導電率はあらゆる金属元素の中でもトップクラスであるのに対し、水銀は水銀はワーストクラスに低い導電率を示します.
結晶構造を見ると、金は他の多くの金属と同様に立方最密構造を持ちます.一方で、水銀(もちろん冷やして固体となった状態で)は菱面形に歪んだ結晶構造を持ち、最密構造を持ちません.
このように、金と水銀の性質には大きな違いが見られますが、原子スケールで見れば両者の違いは非常に僅かです.電子配置をみると、
このように6s軌道にある電子数が一つ違うだけで、あまりにも大きな変化をもたらすのです.
金はなぜ金色か
誰もが高校化学で周期表を習ったことがあると思いますが、授業で習うのは周期表の上の方にある元素に限られていたことでしょう.
周期表の下の方にある元素(重元素)では、上の方にある元素(軽元素)とはまた異なる振る舞いが見られます.金と水銀の違いを知るために、まずは重元素ではどのような特徴があるかを見ていきます.
周期表の下側に進めば原子半径は大きくなるとされていますが、重元素ではそうなるとは限りません.11族元素を見ると、では原子半径が増加しますが、
では原子半径はむしろ小さくなります.
金には他にも不思議な性質があり、電気陰性度が非常に大きいという特徴を持ちます.他にも、重元素である金属は酸化数にも決まった性質が現れます(後述).
重元素におけるこれらの特徴の起源として、以下の2つの要因が挙げられます.
(2)相対論効果
順番に見ていきましょう.
(1)ランタノイド収縮
(1)のランタノイド収縮は、その名の通りランタノイドに関係があります.ランタノイドは周期表の下部に分けて書かれることが多く、4f電子を持つという特徴があります.4f電子は電子の遮蔽が弱いことが知られており、この影響で原子半径を小さくする効果があります.
この現象(ランタノイド収縮)の影響で、ランタノイドの原子核を含んだ元素はいずれも原子半径が顕著に小さくなります.金や水銀といった重金属が、周期表で直上にある元素よりも原子半径が小さいのはランタノイド収縮が要因の一つとなっています.
(2)相対論的効果
(2)の相対論的効果は、アインシュタインの相対性理論による影響を考慮したものであり、これによって重金属の異常な性質の大部分を説明することができます.アインシュタインは、1905年に発表した特殊相対性理論において、運動する物体の質量がその速度に応じて増加することを提唱しました.(は光速)
この効果は、物質内の電子についても働きます.水素原子においては、電子の速度は高速の程度であるとされ、電子の相対論的質量は静止質量の1.00003倍とほぼ無視できます.しかし、金や水銀といった重金属においては無視できない値となります.
水素より重い原子における1s電子の平均的な半径方向の速度は、以下のように与えられます.
これは水銀の場合、となり、光の58%の速度を持つことになります.質量は静止質量の1.23倍となり、1s軌道は23%と大きく縮みます.同様に外側にある電子軌道も大きく縮むことになります.
相対論効果の影響を簡単にまとめると以下のようになります.
(1) s軌道とp軌道の収縮が大きい
(2) s軌道とp軌道が収縮した影響で、d軌道とf軌道が外側に拡張される
(3) 「スピン軌道相互作用」により各電子軌道のエネルギーが分裂するが、この効果は重い元素ほど大きい
色の違いとエネルギー図
これらの効果の合計は、重金属である金と水銀では非常に重要となります.
相対論効果に基づき、金がなぜ金色であるかを説明することが可能です.以下に、金と銀における電子軌道のエネルギーを示します.
金では、相対論効果を考慮しなければ6s軌道と5d軌道はエネルギー的に遠くはなれています.ここで相対論効果を考慮すると、6s軌道のエネルギーが下がると同時に5d軌道のエネルギーが上がり、両者の差が一挙に縮まります.
このエネルギー差が小さくなったことで可視光を吸収できるようになり、金が黄色がかった色を示すようになります.一方、銀では相対論的効果が小さいため可視光を吸収することができません.
このエネルギー図から、金と銀のイオン化エネルギーの定性的な違いも説明することが可能です.金から1つ目の電子を放出させるイオン化エネルギーは、銀のものよりも少し大きい程度ですが、2つ目、3つ目となると銀のほうがはるかに大きいです.すなわち、は
よりも現れやすいですが、
は
よりも容易に生成します.
金の電気陰性度が大きいことについても説明がつきます.金における最もエネルギーの高い電子軌道は6s軌道であり、これは相対論効果によって安定化されています.安定化された軌道にもう一つ電子が入るスペースが有るのですから、電子を引きつける能力が高いのも納得です.
この影響により、気体状態において金分子は非常に生成しやすいことが知られています.また、金の高い電気陰性度を反映して、金が負の電荷を持つアニオンとして振る舞う物質も報告されています.
つまり、水銀はなぜ液体か
さて、水銀の話をするはずがいつの間にか金の話をしていました.最初の質問に戻りましょう.
「水銀はなぜ液体なのか」
水銀の電子配置は、金から電子が一つ増えただけです.電子が一つ増えただけで、どうしてこれほどまでに大きく性質が変わるのでしょう.
気相では、水銀はのような分子となることができません.しかし、
のように、
と同じ電子配置を持った二量体イオンは非常に安定です.
これは、金の電子配置が化学結合を組むのに適していて、水銀の電子配置では化学結合を組むことが困難であることを示しています.この関係は、1s電子を1つだけ持つ水素が二量体分子を形成することに対して、1s電子を2つ持つヘリウムでは二量体となることが困難であるという関係とよく似ています.
金では、安定化された6s軌道に電子が入ることのできるスペースがあるため電子を引きつける能力が高いです.一方、s軌道には電子は2つしか入ることができないため、水銀の電子配置ではこれ以上s軌道に電子を入れることができません.すなわち、水銀は金のように他の原子と化学結合を組むことができないのです.それゆえ、水銀同士の化学結合は弱く、融点も非常に低くなります.
また、同時になぜ水銀の伝導度が低いのかも説明できます.水銀では「局在」して自由に動けない電子しかないため、電子の伝導が困難です.このように、安定化した軌道が閉殻になっているという状態は、希ガスともよく似ています.
s軌道が閉殻であるという状況は、周期表で水銀の上側に位置する亜鉛やカドミウムでも同様ですが、水銀では相対論的効果やランタノイド収縮で最外殻のs軌道の安定化される度合いが強いため、これらの効果がより際立ちます、
まとめ
水銀は、常温で液体であるという点で不思議な元素です.一方、黄金色を示し電気陰性度が高いにも関わらず反応性に乏しい金も同様に不思議な元素です.周期律から一見して逸脱したように見える重元素の振る舞いは、相対論的効果によって一応の説明が可能です.
資源的に豊富な元素が少ない重金属は、軽元素よりも研究例が少ないのが現状です.また、「重金属」というワードからは主に公害や原子力発電の影響で世間的に良い評判を聞かないのも事実です.相対論的効果によって軽元素とは全く異なる重金属の世界をたまには覗いてみましょう.
参考文献
Journal of Chemical Education 68.2 (1991): 110.
化学教育 1970 年 18 巻 3 号 p. 251-253