更新 2024-2-23
ベガード則(ベガードの法則、ヴェガード則、ヴェガルド則、Vegard’s law)
無機固体にはあって分子にはないものとして、固溶体の形成があります.二種以上の固体が互いに溶け合い、全体が均一の組成の物質を形成しているような物質を固溶体と呼びます.
例えば鉄()とクロム()の固溶体(合金)を例に取れば、結晶構造はおよびと同じ体心立方構造ですが、各結晶学サイトはおよびによってランダムに占有されています.固溶体の形成によって、元の物質にはなかったような様々な機能が発現し、現代文明を支えるような有用な材料が生み出されてきました.
固溶体の合成方法は様々ですが、合成した固溶体の組成を知るにはどうすればよいでしょうか.原料の仕込み比が分かっているなら仕込み比をそのまま組成としてもよいですが、理想的な場合だけではありません.組成分析の手法は様々ですが、色々な固溶体を作ることを考えれば、あまり手間のかかる方法を使いたくはありません.
固溶体の組成を決める簡便な方法の一つは、X線回折(XRD)測定結果から見積もった格子定数を用いることです.無機固体を合成した際には、目的の結晶構造のものができているか確認するために必ずXRD測定を行うので、もしXRD測定だけで組成まで分かるのであれば一石二鳥です.
固溶体のXRDを測定したとき、各組成のXRDパターンのピーク位置が連続的にずれていくことが知られています.このXRDパターンから格子定数を求め、「ベガード則」によって組成を(簡易的に)見積もることができます.[a]
無機固体に関わる科学者たちは、この法則を日常的に用いて物質の組成を確認しています.今回は、ベガード則について見ていきます.
ベガード則の概要
ベガード則とは経験則であり、以下の主張に集約されます.
「連続的に置換された固溶体の格子定数は直線的に変化する」
数式で簡潔に記述すれば下式のようになります.Aという物質にBという物質を固溶する事を考えたとき、
ここで、、は原料の格子定数、は組成(Bの仕込み比)を示します.
すなわち、「AとBの間の固溶体の格子定数はBの固溶量に比例する」と言い換えられます.もし原料の格子定数が分かっているのであれば、ある組成の固溶体の格子定数を予測することが可能となります.
材料の結晶構造を確かめるために測定したXRDからついでのように組成を推定できるため非常に便利な手法です.
ただし、法則が必ず成り立っているとは限らないため、様々な組成の固溶体を合成して格子定数を求め、きちんと直線に沿って格子定数が変化しているのかを確かめる必要があります.
組成の変化に対して直線的に格子定数が変化すれば、きちんと固溶体が形成されている(例えば相分離ではない)という間接的な証拠にもなります.
言われれば当たり前のようにも感じるベガード則ですが、決して自明なものではありません.溶液ではより顕著ですが、混合した異種原子は互いに反応することで予想外の性質を示すことだってあります.
ベガード則が成り立つためには、「同じ温度であること」、「原料の結晶構造が両方とも同じであること」、「置換された元素が完全にランダムに分配されていること」などの条件が満たされている必要があります.
ベガード則が成り立たないような物質も多くありますが、その非常にわかりやすく簡潔な内容から、ベガード則に基づく組成決定は今日も科学者に愛用されています.
ベガード則の落とし穴
しかしながら、ベガード則はその簡潔さゆえに日常的に用いられ、その定義を逸脱して使用している論文があるのも事実です.
例えば、「格子定数と一緒に格子体積を組成に対してプロットして、直線状に変化するからベガード則より固溶体の形成を示す」という主張がたまにあります.
しかし、ベガード則とは格子定数に関する主張です.格子定数が直線状に変化する時、格子体積も直線状に変化するでしょうか.
するわけありませんね.
例えば立方晶であれば格子定数が直線状に変化する時、格子体積は組成の3乗で変化します.すなわち、たとえ理想的な固溶体であったとしても、格子体積は非直線的に変化するはずです.立方晶でない場合はさらに複雑な変化を示すことになるでしょう.
実は、格子体積(V)が組成に対して直線的に変化するということを主張する経験則も知られており、「Retger’s law」と呼ばれています.日本語では「レトガー則」とでも呼ぶべきなのでしょうが、現状、日本でこの法則を用いている人を見かけたことはありません.
どちらの法則が適用されるかは物質によって異なりますが、両者はきちんと区別する必要があります.
一般に、原料の格子定数が十分に近い値であれば、ベガード則とレトガー則の差異は小さいですが、原料の格子定数の値に有意な差があれば、2つの法則のずれは大きくなります.上図ではAとBの格子定数に10%の違いがある場合をプロットしています.
また、ベガード則はどんなときにも適用可能な法則というわけではありません.実験的にベガード則からのわずかなずれが観測された際に、固溶体が「異常な」振る舞いを示しているかどうかには慎重な判断が必要です.
とはいえ、組成に対する格子定数の値が不連続に変化したり、突然傾きが変わったりした場合は、相転移や溶解度ギャップの形成を疑ってみてもいいかもしれません.
ベガード則に従わない物質は数多くあります.過信はできませんが、有用な法則であることには変わりありません.
ベガード則の歴史
さて、最後にベガード則を生み出した科学者Lars Vegardについて紹介します.[b,c]
Lars Vegardはノルウェーの物理学者です.J. J. Thomsonの下で陰極線の研究を行い、その後、「ブラッグの法則」のWilliam Henry Braggや「ウィーンの変位則」のWilhelm Wienらと共に研究を行いました.ベガードは、1912年にMax von Laueによる最初のX線回折実験に関する講演を聞き、内容をすぐにブラッグに報告したエピソードでも知られています.
このように固体結晶学者としての確固たる基盤のあるベガードですが、現在ではオーロラの研究によってよく知られています.現在の英語版のWikipediaのLars Vegardの項目ではオーロラの研究に関する記述しかありません.[d]
一方で、べガードはベガード則の発見をはじめとして、結晶学でも多大な業績を残しています.
ブラッグらとともに最初期の結晶構造解析を行った他、窒素のVegard-Kaplanバンドと呼ばれるスペクトルバンドにも名前を残しています.大物すぎる物理学者のネームに隠れてはいますが、科学史に名を刻む偉大な人物であることに疑いはありません.
参考文献
[a] Physical review A, 1991, 43.6: 3161.
[b] Crystallography reviews, 2014, 20.1: 9-24.
[c] arXiv preprint arXiv:1112.3774, 2011.
[e] International Journal of Materials Research, 2007, 98.9: 776-779.