水素発生反応(Hydrogen Evolution Reaction, HER)
地球にとって人類はちっぽけな存在ですが、そんな人類が地球の環境に深刻な影響を与えてきました.無尽蔵にあるかのように思われた地球上の資源も無限ではありませんでした.人類が発展を続けるには、資源を大事に活用していくほかありません.
石油は20世紀を彩った驚異のエネルギー資源ですが、埋蔵量が有限、かつエネルギーを取り出すと同時に二酸化炭素が排出されるという問題があります.代わって次世代のエネルギー資源として白羽の矢が立ったのが水素であり、エネルギー効率が高いばかりか燃焼させても無害な水しか排出されません.しかし、水素は地球上にほとんど存在せず、人工的に合成しなければ手にすることすら叶いません.
地球上に水素ガスはありませんが、水素原子は存在します.
例えば石油に代表される炭化水素は、その名の通り分子中に水素原子を多量に含みます.実際、炭化水素から水蒸気改質反応によって直接水素を取り出す工業的製法が盛んですが、この過程では必ず二酸化炭素が発生します.これでは、燃やしても二酸化炭素が発生しないという水素のメリットを全く活かせていません.
水を使う
他に水素原子を含む物質は身近にないでしょうか.ありふれた水は、の組成の通り水素の宝庫です.
水から水素を取り出すことができれば、事実上無尽蔵の水素資源とみなすことができます.しかし、御存知の通り水は非常に安定で、黙っていても水素は出てきません.水素を取り出すには何らかのエネルギーを与えなくてはなりません.
最も身近で有力な方法は、水の電気分解(電解)です.中学校で習った水電解は工業的にも重要な反応であり、以下の反応に従って水素(と酸素)ガスを得ることが可能です.
カソードで起こる水素発生反応(HER)こそ直接的に水素を製造することが可能な反応です.水素発生の反応効率を高めるために、カソードで用いる電極材料の研究が長年に渡り進展してきました.白金は最も有名、安定かつ効率的な電極材料ですが、あまりにも高価なため工業的な利用には向いていません.
今回は、水電解の片棒を担ぐ水素発生反応を概観するとともに、この反応を高速化するために必要な電極材料について見ていきます.
水素発生反応の概要
水素発生反応とは、結局のところ水の電気分解です.電気分解を行うには、水溶液と二本の電極を用意し、水溶液中である程度の電圧をかけると反応が進行します.この際、一方の電極では電子を受け取った水が還元反応を起こし、水素が遊離します.
これが水素発生反応(HER)です.もう一方の電極では同時に酸化反応により酸素発生反応(OER)が起こります.
一口にHERと言っても、水溶液の液性によって反応は異なります.まず、酸性溶液中では以下のような反応が進行して水素が発生します.この際、水が勝手に電子を受け取って水素が生成するのではなく、電極の金属も関わった複雑な反応が起こります.
すなわち、まずヒドロニウムイオン()中の水素原子が電極金属()上に吸着します.続いて、プロトンと吸着水素、あるいは吸着水素同士の反応によって水素分子()を生成します.反応の前後で電極の状態は変わっていないことから、電極は触媒として機能します.
塩基性では以下のような反応が起こります.
電極材料をどのように選ぶか
HERには電極との吸着反応が含まれていることから、電極の性質がHERの効率に大きく関わってきます.どのような電極を使うのが適切でしょうか.サバティエの原理によれば、電極と反応種の結合の強さが「ちょうどいい」ときに最も活性が高くなるとされています.
すなわち、電極と化学種(HERではまたは)との結合が弱すぎると、そもそも吸着反応(A1)(B1)が起こらず、反応が始まりません.一方、結合が強すぎると解離反応(A2)(A3)(B2)(B3)が起こりづらくなり、なかなか水素分子が出てきません.このため、ちょうどいい結合の強さが求められているのです.
実際、金属と水素の結合エネルギーを横軸にとって反応性を評価すると、結合エネルギーが中間の値で最も高い活性が得られています.この形が火山のようにみえるため、Volcanoプロットと呼ばれています.中でも最も高い活性を示す金属が白金です.
電極として用いられる材料
白金が高性能な電極であることは確かですが、御存知の通り白金は非常に高価であるため、なかなか大量に使用できるものではありません.HER反応の活性向上、ひいては水素生成の効率を高めるため、種々の電極材料が考案・開発されています.
実用的な電極と認められる材料は、以下のような性質を全て満たす必要があります.
- 小さな過電圧
- 大きな(交換)電流密度
- 電流密度の増加に対する過電圧の増加が小さいこと(小さなTafel slope)
- 高い電気効率
- 大きな(活性)表面積
- 高い化学的安定性
以下では、近年報告されている新しい電極材料について見ていきます.
貴金属材料
白金をはじめとして、貴金属は優れたHER活性を示します.高い安定性のほか、Volcanoプロットで火山の頂上に位置するような水素との適度な結合エネルギーも関係していると考えられます.電気伝導性や過電圧の観点からも優れた材料です.
とはいえ、白金の延べ棒を何も考えずに使ってもよいわけではなく、材料の種類以外にもその形態や状態も活性に大きく関わってきます.
粒子のサイズが小さくなるほど体積あたりの表面積が大きくなるため、一般に粒径を小さくするほど活性が向上します.一方で、白金では粒径が小さすぎる(1 nm程度)と反対に活性が下がることが知られています.白金の場合、粒子の「面」が多いほど反応に有利であることが示されており、粒子が小さすぎると「面」に対して「辺」の割合が多くなって活性が下がるようです.
高価な白金の使用量をできる限り少なくするために、白金の形態と粒径を調節して最少量で最大限の活性を得られるよう研究が進められているようです.
白金のほか、パラジウムも優秀な電極材料です.活性は白金にわずかに劣りますが、白金の数分の一の価格であることがメリットです(それでも高価ですが).また、パラジウムは水素を吸収する性質にも優れます.ルテニウムも、より安価な貴金属として有力とされています.
非貴金属材料(その他の遷移金属)
安定性に優れ錆びにくい貴金属と比べると、その他の金属は安定性にやや不安が残ります.それでも、いくつかの金属は良好な触媒活性を示すようです.MilesとThomsonは、非貴金属の触媒活性の序列を以下のように与えました.
中でもニッケルは100年以上前から塩基性溶液中でHERを活性化する触媒であることが知られていました.各種の金属について、形態や粒径を制御して触媒活性を向上させる試みが続けられています.
また、貴金属を含んだこれらの金属元素は、互いに混ぜ合わせて合金化することによって性能・安定性を向上させることが可能です.
金属酸化物
金属酸化物は、安価で安定、かつ入手しやすく環境にやさしいという特徴があり、電極材料として幅広く使用されています.一方で、電気伝導性が低く、水素が吸着可能なサイトが少なく、反応性が低いことから活性の観点では金属材料の後塵を拝します.
酸化物の中でも、とは高い電気伝導度と高い反応性を併せ持つ有力な材料です.HERの最中に粒子が凝集してしまうという問題がありますが、合成方法を工夫することで活性を向上させる手法が提案されています.例えば、多孔質ナノシート状にすることで大きな表面積を確保し、高い活性につながりました.
さらに、複数の金属酸化物を組み合わせた複合材料でも優れた材料が得られています.
金属窒化物
ここで使用される金属窒化物は、金属のホスト構造の隙間に窒素原子が入り込んだ化合物です.負の電荷を持つ窒素イオンが挿入されることで、格子が拡張されるとともに電子構造が変化し、反応に関与する電子の密度が増大します*1.金属窒化物は高い電気伝導度、強靭さ、安定性を誇るため有力な電極材料となっています.
種々の金属窒化物がHER電極材料として知られており、例として系の材料が挙げられます.中でもとの窒化物は研究が盛んであり、白金に迫るような高活性が得られています.
層状化合物(遷移金属ダイカルコゲナイド)
遷移金属ダイカルコゲナイド(TMD)はの組成を持つ広範な物質群であり、電子材料や触媒材料として注目されています.層状構造を持ち、原子一層分のシートがゆるい分子間力によって結びついて積み重なった結晶構造を持ちます.
は半導体材料として有名ですが、HER用電極としても盛んに研究がされています.にはいくつか異なる結晶構造(多形、それぞれ2H、3R、1T)がありますが、中でも安定な2H構造について研究が集中しています.
その他の物質群
やなどのリン化物、やなどの炭化物、やなどのホウ化物も電極材料として優れた性能を示します.グラフェンやカーボンナノチューブを用い、金属元素無しで高活性を記録した材料も報告されているようです.
まとめ
地球を掘っても水素は手に入りませんし、人工的に合成することも容易ではありません.エネルギー材料として宣伝される水素ですが、エネルギーを注ぎ込まなければ水素はできません.それでも、いかに消費するエネルギーを少なくできるかが勝負どころです.簡便に水素を生成できるプロトコルが得られれば、環境問題を様変わりさせるだけのインパクトがあります.
水の電気分解に基づくHERは、最もシンプルかつ強力な水素の製造方法です.性能の向上という面では白金という古典的な材料を超えることは難しいですが、材料コストの面では著しい進歩が見られます.しかし、原料が安くとも特殊な形態が必要で合成に手間がかかり、結果として白金を使うのと変わらないコストがかかっている面もあります.
また、HERの相方である相方の酸素発生反応(OER)も一筋縄ではいきません.より多くの電子が反応にかかわるOERはHERと比べても非常にゆっくりと進行し、全体の反応速度を決めていると言っても過言ではありません.OERについても有力な電極材料が開発されており、詳しくは別の記事で触れています.
参考文献
Chemical reviews 120.2 (2019): 851-918.
Chemical Science 10.40 (2019): 9165-9181.
Inorganic Chemistry Frontiers 6.2 (2019): 343-354.
*1:電子雲の重なりが小さくなることでフェルミエネルギー近傍の状態密度が増加するため