腐食(Corrosion)
新品の自転車を買ってから数年、ピカピカだったフレームは赤黒くなってしまいました.同じように、かつて輝いていた建物の屋根やフェンスも、いつしか見る影もなく変色していきます.どうしてキレイだったものが無慈悲に姿を変えてしまうのでしょう.
金属が環境中の物質との化学反応によって変質あるいは消耗し、本来の機能を失ってしまう現象を腐食と呼びます.地球上には酸素や水、酸や塩類といった腐食性のある物質が数多くあるため、金属はいつしか酸化され、酸化物や水酸化物へと姿を変えます.
導電性や光沢性といった特徴を持つ金属が、脆く絶縁性の(水)酸化物へと変わるのですから、当然元の特性は損なわれます.金属材料にとって腐食は天敵です.
非常に身近な現象でありながら、腐食のメカニズムはかなり複雑です.しかし、腐食を防ぐためにはその原理を詳しく知る必要があります.今回は、腐食のメカニズムについて、鉄の腐食を例に化学反応の視点から見ていきます.
腐食の原理
金属の腐食で最も身近なのは、鉄が錆びて赤黒く変色する現象です.まずはこの赤錆の形成の原理から始めましょう.
腐食は基本的に酸化還元反応であり、何かが酸化されると同時に何かが還元されます.今回の系では酸化されるのは鉄であるとして、還元されるもの(酸化剤)は何でしょうか.
地球環境中で錆の形成に関わるのは主に酸素および水分です.酸素はイメージ通り酸化剤として働き、鉄を酸化させます.
エンタルピー変化が負であるので、この反応は自発的に起こる発熱反応です.すなわち、酸素雰囲気(空気中)に置いておくだけで鉄は錆びます.
一方、水があるとどうなるでしょうか.水はそれ自体が酸化剤として働くわけではありませんが、酸素しかなかった時とは別の方法で鉄と反応します.
またしてもエンタルピー変化が負であるので、この反応は自発的に起こります.しかし、絶対値は前の反応ほど大きくはなく、水があるからと言って極端に鉄が錆びやすくなるようには見えません.
湿った場所や雨の日の方が錆びやすいイメージがありますし、実際に錆びやすい傾向があります.では、水は鉄の腐食においてどのような働きをしているのでしょう.
水と腐食
水中での鉄の酸化反応をもっと詳しく見ていきます.(2)の反応は実際には二段階で起こります.まず、鉄は酸化されてとなり、同時に酸化剤であるが還元されます.
本来なら水酸化物が生成しているはずですが、この物質は溶解度が高いため沈殿しません.もし溶液中に十分な酸素があるなら、はによってさらに酸化されてとなり、水酸化鉄が沈殿します.
赤褐色の水酸化鉄が析出することで錆びた鉄は赤色に見えます.溶解度が極めて小さいので容易に析出し、かつ水で洗ってもなかなか除去できません.
いずれも水溶液中心の反応ながら酸素を必要とします.ゆえに、酸素を含まないような水中に鉄を沈めても錆びません.しかし、水への酸素の溶解量は少ない(~8 ppm)ので、錆を進行させたい(そんな需要があるかはともかく)なら、表面に酸素を連続的に供給する必要があります.鉄の腐食されやすさは、水と酸素の供給量で決まります.
鉄が水にしっかりと漬かっているとき、水中に溶解した酸素の影響で錆が進行しますが、酸素量が少ないためにそれほど錆の進行速度は速くなりません.水の量が減ってくると、水の「膜」に隔てられた空気と鉄の距離が縮まり、空気中からの酸素の供給量も増していきます.すなわち、腐食が促進されるようになります.水膜が数十µm程度のときに腐食速度が最大となるようです.
水の膜がさらに薄くなると、また状況が変わります.鉄が酸化されると同時に生成していた水酸化物イオンは、水があるときはすぐに拡散して新しい酸素イオンを運んできます.しかし、水が無ければ水酸化物イオンが鉄の表面に溜まり、すぐに鉄表面が酸化物に覆われ、酸素が鉄表面にたどり着けなくなって反応はすぐに止まってしまいます.常温ではせいぜい数nmほどの薄い酸化物膜しか形成されず、この程度の膜であれば可視光を透過するため、一見では錆が無いように見えます.
鉄が腐食された最終生成物のにはいくつかの多形があり、大気中では最初にが生成すると言われています.この多形は多孔質であり乾燥すると割れが発生するため、酸素から鉄を守る膜として機能しません.結果として、が形成しても錆の進行は止まりません.ステンレス鋼における不働態膜のようなストッパーがなく、鉄はさらに病食され続けることになります.
さらに鉄の受難は続きます.中のが酸化剤として機能して単体鉄を酸化し、自身はへと還元されます.
生じたは式(4)によってまたとなり、に戻ります.
は腐食を妨げる防御壁どころか、鉄のさらなる酸化を助長する裏切者だったのです.こうなるともはや鉄を守る者 はおらず、いったん鉄錆が形成すると錆の形成が繰り返し続きます.これが、他の金属に比べても鉄に錆のイメージが強い理由です.
どんなとき鉄は腐食されやすいか
前述の通り、鉄が腐食されやすいのは表面にわずかの量の水が付着しているときです.水に漬かっているときや完全に乾いた環境下では、錆の進行は相対的に遅くなります.わずかの量の水が付着するタイミングと言えば、濡れていた金属が「乾く」直前です.これは避けようもありません.雨の日が断続的に続けば濡れと乾きが繰り返され、金属の腐食は進みます.
鉄の腐食とpH
他方、腐食のされやすさは液体のpHによっても決まります.イメージ通り、強酸に鉄を浸せば腐食されて水素を発生しながら溶けだします.水素イオン濃度が高いほど、つまりpHが低いほど腐食速度は上がります.この際は錆の形成を伴わず、鉄がただただ消耗していきます.
一方で、pHが4~9程度の弱酸性から弱塩基性の溶液では、前述のような腐食が起こり、錆の形成を伴います.雨や海水で腐食されるケースと同じであり、最も身近な鉄の腐食です.この際、腐食速度はpHが変わってもほぼ一定です.
溶液が強塩基性(pH>10)となるとまた状況が変わり、鉄の腐食は抑えられます.これは不働態を形成し、金属の表面が保護されるためです.さらに塩基性に向かうと(pH>14)再び腐食速度が早くなります.
以上のような腐食速度とpHの関係は電位-pH図(プールベ図)にまとめられています.
鉄の腐食と電解質
pH以外にも鉄の腐食に深くかかわる要素があります.海水中では金属が錆びやすいと聞いたことは無いでしょうか.海水でなくても、塩水をかけると鉄はすぐに錆びてしまいます.食塩()水は強酸でも強塩基でもないのに、どうして錆の進行を促進するのでしょうか.
鉄の腐食過程において、鉄表面にどれほど酸化剤である酸素を連続的に供給できるかが重要です.腐食が起こるととが生成しますが、進統的に腐食反応を起こすには金属表面に生じたこれらのイオンをどかし、次なる酸素分子の席を空けなくてはなりません.このためには、溶液が導電性を持つ必要があります.すなわち、食塩のような電解質の解けた溶液の方が導電性が高いため、腐食反応が促進されます.
一方で、電解質濃度が高すぎると酸素の溶解度が下がるとともに、鉄表面が電解質由来のイオンによって覆われてしまいます.こうなると腐食反応に寄与する酸素の数が減ってしまい、結果として腐食は起こりにくくなります.
すなわち、電解質濃度が上がると導電性の向上により腐食が起こりやすくなる一方、同時に鉄表面で腐食反応に寄与する酸素の数が減少します.結果として、食塩水中での鉄の腐食速度はある濃度で極大を持ち、その値は3%ほどです.この値は海水の塩分濃度と極めて近い値です.すなわち、偶然にも海水は鉄を最も腐食させやすい濃度水準となっているようです.
金属による腐食されやすさの違い
最後に、鉄以外の金属についても見ていきましょう.
腐食のされやすさは金属によって大きく変わります.貴金属である金や白金は全く腐食されませんが、アルカリ金属やアルカリ金属はあっという間に腐食されてしまいます.この腐食されやすさの尺度となるのがイオン化傾向です.そもそもの定義が水中での金属の酸化されやすさであったことも思い出せば、イオン化傾向はそのまま腐食されやすさの基準になります.
一方で、イオン化傾向が大きくても腐食が進行しにくい金属もあります.逆説的ですが、金属表面がすぐに腐食されることで酸化物が形成され、その酸化物が防御膜として機能してさらなる腐食を防ぐのです.これを不働態と呼びます.
クロムやニッケルは不働態を形成しやすく、これらは強酸に漬けても腐食が進行しません.調びないことでお馴染みのステンレス鋼には鉄に加えてニッケルとクロムが添加されており、不働態によって錆の形成を防ぎます.あるいは、亜鉛などの腐食されやすい金属をメッキすることで腐食されたくない金属を守る手法もあります.
まとめ
ピカピカだった金属製品もいつしか変色しボロボロになっていきます.これは、酸素や水といった腐食性の強い物質が豊富な惑星に生まれついた上での宿命と言えるでしょう.さらに、地球上を覆いつくす海水は、金属を腐食するうえで最も効率の良い濃度に保たれています.こうなると、地球は金属を腐食させる方向に最適化されると言えるかもしれません.
腐食というとネガティブなイメージの言葉ですが、物質にとってみればより自然な方向に化学反応が進んだ結果であり、非難されるようなことでもありません.
参考文献
CHEMISTRY & EDUCATION 2017 Volume 65 Issue 12 Pages 612-615
真空 2001 年 44 巻 10 号 p. 860-867
特殊鋼 2020 年 69 巻 6 号
Zairyo-to-Kankyo 1996 Volume 45 Issue 5 Pages 323-324
Journal of The Surface Finishing Society of Japan 2013 Volume 64 Issue 2 Pages 99-103