専門用語って…
専門分野を学ぶにあたり、専門用語を避けては通れません.
「リートベルト解析」「グッドイナフ=金森則」「トポロジカル絶縁体」
日常生活ではまずお目にかからない用語が次から次へと登場するので、意味を理解するだけでも一苦労です.
こうした専門用語のうち、人名に基づいたものはかなり厄介です.
「アハラノフ=ボーム効果」「ベックマン転位」「ドハース・ファンアルフェン効果」
用語だけでは中身の想像のしようがないため、なんとかして覚えるしかありません.
一方で、「超伝導」「イオン伝導体」「光触媒」など一般名詞に基づいた用語は、名前から意味が推測できるのでありがたい限りです.内容を忘れていても、なんとなく意味は掴めます.
しかし、中には一般名詞に基づいた用語にもかかわらず、直感的に意味が全く分からない用語が存在します.そうした用語は無駄に頭を悩ませるだけですし、初学者の学習の妨げになるしで、はっきり言って害悪でしかありません.
しかし、「素人には分からない」=「高尚」という響きを与えるのか、一部の人に人気があるのも事実かと思います.*1
今回は誤訳か勘違いか何やらによって、一見で意味を解釈できない学術用語を紹介します.
(1)質量作用の法則
高校・大学で化学を学んだ人には馴染みのある法則だと思います.
以下のような化学反応を考えます.
この反応は可逆であり、十分に時間が経つと正反応と逆反応の速度が等しくなり、見かけ上反応が進行しない状態になります.この状態を平衡状態と呼びます.
この際の各成分の濃度比は、
温度と圧力だけの関数になります.なお、は
のモル濃度を意味します.
この法則を質量作用の法則と呼び、を平衡定数と呼びます.
さて、法則の中身は受け入れてもらうこととして、どこに「質量」と「作用」が出てきたのでしょう.
「質量作用の法則」は英語では「law of mass action」です.「mass」が「質量」、「action」が「作用」に対応するので、英語を直訳した結果が「質量作用の法則」であると推定されます.日本語からは何を示しているか意味不明であり、不適切な学術用語という指摘が昔からされています.日本化学会から「変更が望ましい法則名」として名指しされたこともあります.
さて、ではどのように訳すのが適切でしょうか.
厄介なことに「mass」には多くの意味があり、「質量」「集団」「多量」「大部分」「大きさ」などの意味が辞書に載っています.本法則は、多量の反応物質が関与する反応に用いられるので、「mass」は「集団」に対応するのではないかという提言があります.この場合、「集団作用の法則」と訳すのが適切でしょうか.この場合でも、やはり所見で意味がわからない法則であることには変わりませんが.
異論もあります.この法則が提唱された19世紀後半、反応に関与する化学種のモル濃度は「active mass」と呼ばれていました.おそらく現代の「活量」から類推されるように、「溶液中で反応に関与する化学種の量」を意味する言葉でしょうか.「active mass」は日本語では「活性質量」と訳されます.
「active mass」が関与する反応なので「law of mass action」であることは自然ですし、訳すのであれば「活性質量」の「質量」をとって「質量作用の法則」と訳すのは妥当といえば妥当です.
とはいえ、今では「活性質量」の語も使用されなくなってしまったので「質量作用の法則」の字面を見ただけではどんな法則か想像もできません.今日では、法則の内容に基づいて「化学平衡の法則」と訳すケースも増えているようです.日本化学会からもそのような提言がされています.
日本化学会の思いが実り、2022年の化学の教科書から「質量作用の法則」は姿を消し、「化学平衡の法則」と改定されたようです.
(2)定比例の法則
定比例の法則、倍数比例の法則、気体反応の法則.
受験生以外で、これらの法則の中身を答えられる人はいるでしょうか.字面からは全く意味がわからないので、多くの受験生は丸暗記しているかと思います.もう少し良い訳語はなかったのかを考えていきます.
まず、定比例の法則の意味するところは「物質が化学反応する時、反応に関与する物質の質量の割合は、常に一定である」ことです.18世紀後半にフランスのJoseph Louis Proustによって提唱されました.
「定比例」がまず意味不明ですし、無理やり解釈しても法則の中身との乖離がままあるように思います.
英名は、「law of definite proportions」または「law of constant composition」です.よって、和名「定比例の法則」が単純な直訳であることが分かります.
「definite proportions」を何も考えずに直訳したら「定比例」になるかもしれませんが、「constant composition」とはどう考えてもつながりません.
法則との対応から鑑みて「一定組成の法則」が適切ではないかという提言が日本化学会からされています.
(3)倍数比例の法則
続いて、倍数比例の法則ですが、これも字面からは意味が分かりません.
法則の中身は「A・Bという2つの元素が化合していくつかの化合物をつくる場合,元素Aの一定量と化合する元素Bのそれぞれの質量のあいだには簡単な整数比が成り立つ」というものです.フランスのJohn Daltonが提唱したものです.
何がどう「倍数比例」なのかわからないし、特に「比例」が謎です.
英名は、「law of multiple proportions」です.やはり「proportions」を「比例」と訳してしまったことが混乱のもとであったことが分かります.(2)と同様に訳し方を考えると、「倍数組成の法則」が妥当でしょう.日本化学会からそのような提言がされています.
(4)気体反応の法則
もはや字面から何の情報も伝わってこなくなりました.恐らく、気体の反応に関する極めて一般的な法則なんだろうなあと想像できるのみです.
どういう法則であったかというと「気体同士が反応したり、反応によって気体が生成するとき、それらの気体の体積間には簡単な整数比が成り立つ」というものです.フランスのJoseph Louis Gay-Lussacの提唱によります.
英名は「law of combining volumes」であり、もはや直訳ですらなくどこから来たのか不明な訳語となっています.「combining」をどう訳すかが厄介ですが、「反応体積の法則」あたりでしょうか.もはや「気体」も「反応」もどこかへ行ってしまいました.
日本化学会の提言は「反応体積比の法則」とされています.
(5)電気分解
電気分解は「電気のエネルギーによって強制的に酸化還元反応を起こすこと」を意味します.
英語では「electrolysis」です.electro-(電気)を-lysis(分解)するということなので、邦訳には特に問題はありません.
しかし、電気分解は水や二酸化炭素を分解するだけでなく、メッキや精錬にも使用されるので、「分解」反応だけを起こしているわけではないのは確かです.人によっては「分解」のイメージを和らげるために「電解」という訳語を使用する場合もあります(ぱっと見で意味が通じにくくなってしまった感も否めませんが).
(6)物質量(amount of substance)
誤訳ではないですが、無駄に化学を難しいもの(であるかのよう)に見せている概念なのかなあと思います.「モル」は高校化学の壁の一つとして知られ、化学嫌いを増やす元凶の一つでもあります.物質の数え方の問題で1ダースや1セットなどと大差ない概念のはずなのですが、1023というスケール感のせいなのか、毛嫌いする学生は多くいます.
問題は、「物質量」という言葉を特別な意味を持つ専門用語にしてしまっているせいではないかと思います.「酸素の物質量」「水素の物質量」と言われて、何か高尚で手に負えないものを扱っている感覚に襲われているのではないでしょうか.
そんなことをせずに「酸素の量」「水素の量」で良いのでは?と思ってしまいます.
まとめ
学術用語が無駄に難しいことで得をする人はいません.専門用語の名前を知っただけで何か物知りになった気になってしまいますが、特に意味はありません.
内容が難しいのなら仕方ないですが、字面から意味がわからないせいで難しいと諦めてしまうのは本当にもったいないことです.できる限りぱっと見で分かりやすい用語で統一することが、科学会にとって有益であるように思います.
参考文献
高等学校化学で用いる用語に関する提案(2)(委員長発SOMETHING NEW)
*1:余談ですが、法律を学んでいた際「結果無価値論」という言葉を覚えるのに時間がかかりました.「違法性の本質を、犯罪の結果に重点を置いて解釈する考え方」らしいですが、名称からはまるで解釈できません.どうやら元のドイツ語の意味では「無価値」よりも「反価値」の方が適切な訳とのことで、誤訳に近いようです.