更新 2024-2-23
負の熱膨張とは(Negative thermal expansion)
固体は温度を上げると膨張します.これは「熱膨張」の記事の冒頭と同じ文です.熱膨張は材料設計の際は邪魔ですが、うまく使いこなせば便利な機能を実現できます.
一方で、世の中には熱膨張が極めて小さい物質が存在します.それどころか、温度を上げると縮む物質まで存在します.常識に反するこのような物質は「負の熱膨張」物質と呼ばれます.*1
通常、温度が上がると原子は激しく運動して互いに遠ざかり、材料は膨張します.なぜ縮むようなことがあるのでしょうか.負の熱膨張は、それ自体が科学的に非自明な現象であり、現在に至るまで原因究明が進められています.
正の熱膨張を示す物質と負の熱膨張を示す物質を適切に混合することで、熱膨張をうまく打ち消し、熱膨張しない物質(ゼロ熱膨張物質)を作り出すことが可能です.これにより熱膨張の弊害を取り除き、これまで不可能だった新しい機能デバイスへの道が開かれるかもしれません.
今回は、負の熱膨張を示す奇妙な物質について見ていきます.
負の熱膨張の発見
負の熱膨張材料が発見されたのは、正の熱膨張材料と比べるとつい最近の話です.*2
正確には負の熱膨張ではありませんが、負の熱膨張に言及する前に、極めて低い熱膨張係数を示す材料であるインバー合金に言及する必要があります.
インバー合金は鉄とニッケルの合金です.鉄とニッケルを固溶すると熱膨張率が連続的に変化するのですが、ある組成()で非常に小さく、かつ温度にほとんど依存しない熱膨張率を示すことが発見されました.その特異さから、この組成に「不変」を意味するインバー(Invar)の名がつけられました.
この合金を発見したのはスイス人のCharles Edouard Guillaumeで、1895年のことでした.この業績によりギオームは1920年のノーベル物理学賞を受賞しています.前後のノーベル賞(アインシュタインやマックス・プランク)と比べると一見地味(失礼!)ですが、インバー合金は現在に至るまで産業では欠かすことのできない材料として広く使われています.
インバー合金の熱膨張係数はで、鉄の値()と比べるとその異様な小ささが分かると思います.インバー合金の発見に続き、さらに小さな熱膨張を示す物質、ついには負の熱膨張を示す物質が発見されていきます.
さて、負の熱膨張を示す物質にはどのようなものがあるでしょうか.不思議な現象なだけあって、聞いたことのない物質があるのではないかと身構えますが、身近に一つ負の熱膨張物質があります.
それは「水」です.
水の密度は0℃ではなく4℃で最大となりますが、これは水が0℃から4℃まで負の熱膨張を示すことに由来します.水は非常にありふれていながら非常に特殊な物質でもあるのでここでは多くを語りません.以下のページを参考にしてください.
負の熱膨張材料とその起源
正の熱膨張の原因は原子の熱振動によるものであると「熱膨張」の記事で述べました.負の熱膨張が起こるとすれば、その起源は何でしょう.複数のメカニズムが提唱されており、一言で説明することはできません.代表的なものを以下に4つ挙げます.
(1)強固な結合によるスカスカな構造
(2)磁性による格子サイズの変化
(3)構造変化による格子サイズの変化
(4)電荷移動による格子サイズの変化
さて、これだけでは意味が分かりません.以下で一つずつ見ていきましょう.
(1)強固な結合によるスカスカな構造
どのような構造をイメージするでしょうか.意味が分からないどころか、矛盾しているような気さえします.百聞は一見に如かず.構造を見てみましょう.
代表的な負の熱膨張物質としてがあります.この物質は0.3 Kから1050 Kまでの非常に広い温度範囲で負の熱膨張を示すことが1996年に発見されました.
構造は四面体と八面体が酸素原子を頂点共有することで形成されています.それぞれの四面体と八面体自体は非常に強固につながっていますが、結晶構造全体を見てみるとご覧の通りスカスカです.隙間が多くあり、ちょっとした金属原子だったら簡単に入り込めそうです
これが「強固な結合によるスカスカな構造」の意味するところです.
このような構造は他の物質でも知られています.特に有名なのがという物質で、型構造を示します.この構造は、ちょうどペロブスカイト型構造からAサイトの大きなカチオンを抜いた構造です.
原子間の結合が強固になると、「熱膨張」の項目で説明したような非調和的な格子振動ではなく、よりバネに近い調和的な格子振動が現れます.ポテンシャルの形は変わらなくても、結合が強ければポテンシャルの底近くで振動することになり、より調和振動に近い振る舞いをするからです.これにより正の熱膨張が抑制されますが、これだけでは負の熱膨張は現れません.
ではどうして負の熱膨張が起こるのでしょう.
重要な実験結果として、温度が上昇するにつれて八面体内の距離は伸びるにも関わらず、八面体を介した距離は縮むことが分かっています.また、は結合方向にはほとんど振動せず、それに直交する方向にのみ振動しています.すなわち、「堅い」八面体内では正の熱膨張が起こっているにもかかわらず結晶全体では負の熱膨張が実現します.
スカスカなネットワークがうまく機能して負の熱膨張を起こしているに違いありません.八面体の熱振動が大きくなるにつれて、八面体同士がうまく「折りたたまれる」ことで全体の体積が小さくなっていると考えられます.
のほか、金属が秩序化したことを除き同様の構造を持つ, なども同様に負の熱膨張を示します.シアン化物や金属有機構造体(MOF)といった物質群も負の熱膨張を示す物質として知られています.
(2)磁性による格子サイズの変化
物質の磁性と形状には密接な関係があることが古くから知られています.一つの例が、磁石に磁場を印加して磁化させると物質が伸び縮みする現象です.1842年、ジュールの法則で有名なJames Prescott Jouleによって発見されたこの現象は磁歪と呼ばれます.
磁性を示す物質は、低温では磁気秩序を示し、高温では磁気的に無秩序な状態となります.この2つの相を分かつ磁気転移温度を境にして物質の体積が大きく変化する物質があり、このような現象を磁気体積効果と呼びます.
通常は、低温から温度を上げて磁気転移を起こすことで体積が減少する(=負の熱膨張)効果が働きます.しかし、多くの磁性体における磁気体積効果は小さいため、通常の正の熱膨張に覆い隠されて正味では負の熱膨張を示しません.
との合金であるインバー合金はこの磁気体積効果が特に大きい物質で、おおむねゼロ熱膨張を示します.このように極めて小さい熱膨張を起こす性質はインバー効果と呼ばれ、ほかにも様々な磁性体で同様の現象が報告されています.
例を挙げるとキリがないですが、合金、、などの物質が磁気体積効果に基づいて負の熱膨張を示します.合金だけではなく、酸化物や窒化物でも負の熱膨張を示す物質が報告されています.
インバー効果を示す物質は磁気転移温度の近くの温度範囲でのみ負の熱膨張を示します.これは長所でもあり短所でもあります.限られた温度範囲でしか使用できないということは、使用できる分野も限られてくるということです.しかし、その分特定の温度範囲の熱膨張係数は極めて大きな値を示します.また、磁気転移温度を化学置換によって調整することで、負の熱膨張が機能する温度範囲をコントロールすることが可能です.
(Aは金属元素)の組成で表される窒化物はアンチペロブスカイト型の結晶構造を持ち、巨大な負の熱膨張を示すことから注目を集めています.この物質は、低温で起こる特殊な磁気構造が負の熱膨張の起源とされています.磁気転移温度で非常に鋭い(=温度範囲の狭い)負の熱膨張を示しますが、組成の制御により組成を最適化することで、熱膨張係数はにまで達します.
(3)構造変化による格子サイズの変化
物質の中には温度変化によって結晶構造が大きく変化するものが存在します.
例えば鉄は体心立方構造であると習いますが、高温では面心立方構造となります(さらに高温では体心立方構造に戻ります).このような構造相転移の際に体積が大きく変わる物質があり、中には負の熱膨張を示す物質が知られています.
強誘電体は、外部電場の助けなしに結晶構造中の電荷がプラスの領域とマイナスの領域に分かれている物質です.このような状態を、自発的に分極が発生していると表現します.強誘電体はコンデンサ、メモリ、圧電素子などの用途に用いられます.磁性体と同様に、強誘電体も転移温度以上の温度では分極を失って常誘電体となります.
例えばはペロブスカイト型構造を持つ酸化物であり、500℃以上の温度にすることで強誘電体から常誘電体になります.この構造相転移に伴って物質の体積が大きく減少し、負の熱膨張を示します.この負の熱膨張には、分極の大きさ、結晶構造中のの位置、との結合の強さなどが関係しているとされていますが、詳しいメカニズムはまだ分かっていません.
他にも、といった物質でも強誘電・常誘電転移による負の熱膨張が観測されています特にはサイトにやを固溶させることで、体積が約8%減少するという巨大な負の熱膨張を示します.
(4)電荷移動による格子サイズの変化
酸化物を代表としたイオン結合性の物質は、構成する全ての原子に価数(電荷)を割り振ることができます.例えばというペロブスカイト酸化物であればという具合です.
ここで登場するペロブスカイト酸化物は、とという二種類の金属元素を含みます.ビスマスはが安定ですが、特殊な環境ではをとることができます.
室温では)という価数分布をとりますが、ここに(温度ではなく)圧力をかけることで、構造相転移が起こるとともに価数分布がへと変化します.この相転移と同時に物質の体積が大きく減少します.また、高圧(1.5 GPa)を印加した状態では温度上昇によって体積減少(=負の熱膨張)が起こります.組成をうまく調整することで負の熱膨張が常圧でも実現するようになります.
における体積収縮は、からに電子が移動しての価数が+2から+3になることにより、の結合距離が大きく縮むことで起こります(陽イオンは電荷が大きくなるほどイオン半径が小さくなります).組成を最適化することにより、熱膨張係数はにまで達します.
このような電荷移動による負の熱膨張は、同じくペロブスカイト構造に属するでも観測されています.この物質は常温ではの価数分布を示しますが、高温では鉄から銅に電子が移動し、へと変化します.この電荷移動に伴い、格子体積が1%ほど収縮することが報告されています.
まとめ
もともと科学的な好奇心の対象だった負の熱膨張物質の研究は近年急速に進展しており、実用化・販売されている物質もあります.主な用途は正の熱膨張を示す物質と混合してゼロ熱膨張を実現させ、精密機械などの動作不良を防止することです.現在の負の熱膨張物質の基礎研究は「新しい負の熱膨張物質の開拓」と「負の熱膨張の起源の解明」に大別できるかと思います.もちろん、企業では量産化のための研究が盛んなことでしょうが.
主な応用先は正の熱膨張を打ち消すことなので、極端に大きな負の熱膨張の値はそれほど必要とされていませんが、学術的な興味から大きな負の熱膨張を実現するにはどうしたら良いでしょう.既存のメカニズムを複数組み合わせた物質なんてのはできないんですかね.今回挙げたメカニズムの中では、(2)磁性と(4)電荷移動なんかは組み合わせることができそうな気がします.とはいえ、組み合わせたところで特性がよくなるとは限らないのも世の常.はたまた、全く新しいメカニズムがこの先発見されるかもしれません.
参考文献
Science advances, 2019, 5.11: eaay2748.
Journal of the American Chemical Society, 2016, 138.27: 8320-8323.
Science, 1996, 272.5258: 90-92.
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